サラサロメ_作者の思い

【作者の思い】

サラ・ベルナールの『サロメ』。

そう聞いてどれだけの人が“ちょっと待てよ、おかしくないか?”、そう思うのだろう。

サラ・ベルナールは1844年に生まれ、19世紀の世紀末から20世紀にかけて世界的な人気を博した世界初の国際的なスター俳優である。その彼女の演じたサロメ。歴史的なサラの名声を知る人は“さぞかし名演だったのだろう”、そう思うかもしれない。だがサラを深く知る人は、“サラ・ベルナールのサロメは、ワイルドから望まれて初演するつもりが、ロンドン当局から上演禁止とされた”ことを知っている。そこからまた意見は分かれる。“その後、サラはサロメを演じたのだろうか?”と疑問を持ったり、“いや、演じたなんて聞いたことない”と言うだろう。また、サラのことを知らない人、名前だけ聞いたことのある人は“昔の名優の芝居の話か”と思うだろう。

かくいう私はサラ・ベルナールのサロメが歴史的に上演禁止になったことは知っていたが、その後彼女が演じたのかどうかを知らぬままに歳を重ねていた。フランスに行った時にはサラの衣裳や写真の展示を見て、また、コメディ・フランセーズではここでサラが芝居をしたのだ、と感慨深くしたものだが。

その後の私は、自分が不勉強ながら知らなくとも、“どうしてこんな作品を作ったんだろう?”、“あの作品は、あの人は実際はどうだったんだろう?”と思うことを芝居として書いて来た。

ベートーヴェンの第10交響曲はあの第九に続く作品になるはずの曲。いったいベートーヴェンにとってもどれほどの壁だったんだろう?とか、マルセル・デュシャンのファウンテンはなぜ生まれたのか?とかそんなことを。

だが、サラ・ベルナールの『サロメ』はそういう疑問から始まって書き始めたのではない。“サラの人生を芝居にできたら”…そう考えて調べ始めてから気づいた疑問だった。

サラ・ベルナールの『サロメ』、結局彼女は一生サロメを演じなかったのだろうか?

結果、サラはサロメを演じていない。少なくとも観客を前にしての記録はない。

それにしてもサラのサロメに関する資料は驚くほど少ない。初演の予定されていた劇場、相手役や衣裳デザイナーも分かっていて、サロメの扮装写真まである。しかし“サラがどこまでリハーサルをしたのか”は分からず、何よりも“サラはサロメの上演中止をどのように受け入れ、そしてまた、どのように諦めたのか”…それらは何も残っていない。当時50歳に手が届こうとしたサラが少女を演じる際にどのような役作りをしたのか。そして、どのように「ヴェールの踊り」を踊ったのか…そのことを考えたら、サラの人生ではなく、サラのサロメに絞って物語にできたら、そう考えるようになった。

サラが年齢を重ねても尚、『椿姫』のマルグリットや『トスカ』の表題役を演じたことは知られている。50歳を超えて自身の名を冠した劇場を開場した(1899年、パリ)のも『トスカ』だった。私たちは『トスカ』という作品を芝居よりもオペラで知っている。そしてオペラで演じられるトスカの多くは、無垢な少女ではなく貫禄たっぷりのDIVAとしてステージに君臨する。だが、サルドゥの描いたトスカは決してステージに君臨する獰猛なメスの虎ではない。ましてやファムファタール、宿命の女でもない。羊飼いに育てられ、その美声から16歳でデビューした、まだ20歳そこそこの新進気鋭のプリマドンナである。なにしろ恋人のカヴァラドッシと出会ってからまだ一年足らず。2人の出会いは、トスカが「代役」で立った舞台を見て、なのだから。

では、サラの演じたトスカは果たしてどうだったのか?サラの声の美しさ、その体躯の細さはデビュー当時から話題で、サラが世界的なスターになったのは何よりもその声と容姿、そしてスターとしての演技力であったに違いない。20世紀になってからのいくつかの映像も含めてその様式を想像することはできるが、写真や映像もまだ不自由な時代のこと。私たちは観劇録や幾つかの証言から想像するしかない。だが当時の劇場の物理的な条件、つまり照明や舞台美術、衣裳の様式を想像するに、ある程度大ぶりな芝居であったことは想像がつく。それはその後のスターたち、グレタ・ガルボ、マリーネ・ディートリヒ、アンナ・マニャーニたちの芝居よりも前時代的なものだっただろう、と。

芝居には流行がある。それは誰が、とか、どんな作品が、だけではなく、好まれる芝居の様式だ。もちろんそれらは科学技術、つまり照明の発達や映像の登場と関係している。そして人々の生活のテンポ感とも。現代の我々から見た今の価値観で過去の俳優たちを評価するのはフェアではない。その時代に生きた俳優はその時代に固有のドラマのテンポの中で演じていたのだから。もちろん変わらないものもあるはずだ。そしてそれこそが、過去の俳優たちに私たちが思いを馳せる憧れなのだ。

一つには、サラには作者オスカー・ワイルドとの共同作業があったはずだ。上演禁止になった時(1892年)にはワイルドはまだ投獄される前だった。台本を読む場やリハーサルの場にワイルドがいたことは台本の修正記録原稿から確かである。そしてサラの声に感動した記録も。そう、英語を母国語とするワイルドがフランス語で『サロメ』を書いた時、サラのことが念頭にあったのは明らかだ。現代の研究からは、ワイルドが種本にした英訳と『サロメ』の英語版の共通点が指摘されている。それはとりもなおさず、ワイルドが英語で『サロメ』を書き上げたのちにフランス語に訳したことを仄めかしている。『サロメ』のフランス語版の文法的、表現的な不備や、英訳版をめぐるダグラス卿とワイルドの関係にもまた、一本の芝居、または1シーズンの連続ドラマになるほどのドラマがある。しかし、何よりも『サロメ』をフランス語で初演したいと“準備した”ワイルドの頭には、サラ・ベルナールがあったことは疑いようがない。そしてそれは、1892年にロンドンで行われるはず、だった。

だが、事実として上演は中止され、以来サラは口をつぐむ。その直後、まずは1893年にパリでフランス語版、そして翌年には英語版もロンドンで発表された『サロメ』は、パリで舞台版も初演されることになる(1896年)。しかしそこにはサラ・ベルナールは参加せず、当然獄中にいたワイルドの姿もなかった。

では、サラはその後完全に上演を諦めたのだろうか?誰がどう見ても、サラにこそサロメは捧げられていたのだし、それが実現していたら、歴史的な上演になったに違いないのに。

一方、新聞上でサラのために『サロメ』を書いたことを否定したワイルドだが、彼が獄中にいた1896年に『サロメ』が初演された翌年、このように手紙にしたためている。“エレオノーラ・ドゥーゼが今、『サロメ』を読んでいる。彼女がサロメを演じるかも知れない。サラには比べようがないけれど、彼女もなかなかの女優だ”(1897年12月10日、レオナード・スミサーズ宛)。どんなにワイルドが“一人の女優のために作品を書くようなことはしない”と強がろうとも、彼のサロメはサラ・ベルナールなのだ。

本作『サラ・ベルナールの<サロメ>』の舞台は1899年。サラ・ベルナール劇場開場の年であり、ミュシャとの専属契約の最終年でもある。サラはハムレット役を颯爽と演じ、開演前の男役を演じる事への観客の不満、批判を黙らせた公演初日から物語は始まる。先述の通り、『トスカ』で幕を開けたサラ・ベルナール劇場は、300回を超える『トスカ』の評判により幸先に良いスタートを切っていた。そこに持ってきたのがサラのハムレット役で、サラは自分のやりたいことをやれる環境にあり、同時に自信があったのだろう。だが、そして劇場運営を考えた時に、サラの偉大なるレパートリーの他に、正真正銘のサラ・ベルナールの新たな代表作として目玉となる演目を目論んでいたであるうことは想像に難くない。それが『サロメ』だったのではないか。それがこの物語の発想だ。

ロンドンで上演を禁止されてから8年。サラも50歳を越え、やりたいことはやっておかねばならない年になっていた。自分の劇場で、パリで、それを止める者は誰もいない。もちろん、史実としてサラは観客の前ではサロメは演じていないのだから、公演を行う物語にはしてはならない。サラ・ベルナールのサロメは幻なのだから。…ネタバレになるだろうか?だが、結末をバラしてでもこの物語を世に問いたいのは、“彼女がなぜサロメを演じることを諦めたのか”…そのことが一番ドラマティックだからだ。あくまでも私の想像でしかないし、事実、サラは右脚を失うに至り、“7つのヴェールの踊り”がハイライトとなるワイルドのサロメをどこかの時点で諦めたに違いない。いや、だがサラ・ベルナールならばそれでも尚…想像は尽きない。

史実を曲げることなく、だが史実の隙間にあったドラマに想いを馳せる。それが私のポリシー、姿勢であり、史実へのリスペクトである。

サラ・ベルナールの『サロメ』。

そんな劇作家のファンタジーの中にも、サラベルナールの真実は宿る、そう信じて。

田尾下哲

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